20日に色々書きすぎたので一日未来日記


女性は共感を求める動物です。そんな事、十年以上も前から知っています。本とテレビの中の知識としては。


実際、女性同士が共感を演じている様というのはよく見るシーンでもある。
ただ、俺はあれは結局のところ幻想か演技が99%だと思う。
だって違う個体だもの、たとえ同じものを受け取っても反応が違うのが当たり前、同じ反応の時だってあるけど、違うことの方が多くて当たり前なのだ。
本当に共感している事もあるけど、そうじゃない時は共感してるフリ。
そうさせているのはある時は優しさだったり、またある時は共感しない事による迫害を恐れる心理だったりする。


そして、時として男もその不条理な共感を求められる(実はいつでも!?)。
求められても、究極的に無理な事ははっきりしている。であれば、No を付き返すか代替案を考えるかしかない。


というわけで、想像に基づく演技という代替案をとる事にする。
そうする理由は "個体が違えば完全に共感し続ける事は無理" という前提を、相手に話しても理解できないからだ。
求められている条件を変える事が無理だとすると、No を突きつけるか、優しく騙すかのどちらかしかない故に。


まず、単純な想像ではダメである。
単純に想像がつく範囲というのはそもそもが自分に置き換えた場合に共感できうる範囲内の事でしかない。つまりそれは多くの場合に的外れな答になるだろう。
ここで想像しなくてはいけないのは、自分とは違う、考え方も感じ方も違う人間の物事の感じ方である。


であれば、相手がどういう人間であるのかをまず想定しなくてはいけない。
ちょっと勇気をだして、自分の心に浮かんだ相手へのネガティブな印象を引っ張り出そう。
もちろん普段はこんな事しなくていい。こういう事はツラい現実を無理して見るより夢でも見ているほうがずっと幸せな事の一例だろうから。


ちょっと考えてみた。以下のような感じ。
多くの人間は、大人しく見えても(むしろ大人しそうに振舞う人ほど)極めて利己的に物事を感じて、考えるものである。そういう人は何か災いが起こったとき「(自分にも非があった、もしくは運命を変えるチャンスがあったはずなのにそれを逃した自分がいるのだから)仕方がない」という考えはしないものである。つまり、世の中の悪いことは全て周りが悪いと考えていて、自分はいつも被害者だと思っているし、自分が事態を変えるチャンスを気づけずに、もしくは力が足りずに逃したという考えはなく、自分は同情されるべきで、共感して同情しない者は100%の悪だと思っている。過失割合は0対100で。



うん……どうだろう、かなり勇気を振り絞って自分の心の闇に踏み入って取り出してみた。
書いてみるとなかなか、性別問わず8割9割の人に適用できそうな物になった気がする。
こういう人が、なんて言葉をかけてもらいたいのかを想像すればいいんじゃないだろうか?


と思って投げかけられたテストケースに当てはめてみようとしたが……難しかった……。
まるで社会通念であるかのように投げかけられた「その人は〜するべきでしょう?」が理解できない………。
ああそうか、利己主義っていうのはそういう物なのか?
つまり、相手が自分に共感してしかるべきであるのと同様に、常に負担を一方的に相手が負うべきで、自分は一切の負担を負うべきではないっていうのが利己的な考え方なんだ!?


無意識に「自分」を想定してしまうから理解できないんだ。
自分なら腹立たしいと思っても仕方がなく我慢するシーンでも、相手が100%負荷を負ってしかるべきなんだ。
ちょっとでも客観を想定して大人の行動をしようとしてはいけない、容赦なき主観。そういう世界観なんだ………。


なんだか気持ち悪くなってきた……。
人はそれぞれ違う。そう言っている自分が他者を心底から思いやろうとすると化け物を描いてしまう。
化け物を思い描く自分も嫌だし、自分もまた化け物なのだと思うと二重にも三重にも嫌になってくる……。