自己脱線

最近よくものみの塔の人が布教に来る。昨日も出勤前にきておなじみの二冊の小冊子を置いていった。
そのことについて書こうと思ってたら自分の中で話が脱線して別の話になってしまった。


というわけで脈略も無く適当に脱線先を書く。
いきなりカミングアウトからだけど、自分は小学生の頃、「教師による生徒苛め」の被害者であった。
酷かったのは5〜6年の担任の男性教師で体罰という名の暴力も幾度かあった。
これは「子供は無邪気なんかじゃない」とか「小学生に操られる小学校教諭は実際にいる」とか、
それだけでちょっとした長文が書ける話題がザックザック詰っている体験で、
自分の性格形成にも深く関わってる話題だったりする。
この5〜6年の担任以外にも3年生の時に産休に入った担任の代わりにやってきた定年後の臨時教師からも
(この人の場合、本人はよかれと思っていたのだろうけど)数十年後の今考えても
ただ単に辱められただけでまともな大人のやり方とは思えないような方法で叱られたことがあったり、
苛めではないにしろ小学2年の担任からはやってもいないカンニングを(事実上)やったとされたことがあったり、
小学生の頃の教師運は最悪だった。


そんなわけで、教師の腐敗なんか今に始まったことじゃなく大昔から教師ってのは頭がおかしいのが山ほど混ざってたんじゃないの?と思うわけである。
そして、自分も(何よりも事実無根の冤罪により)体罰という名のリンチ……本当にリンチでした。日体大卒業の男性教諭が小学生の髪を掴んで硬い机に向けて頭を何度も力いっぱい叩きつけ、握りこぶしで顔や腹を殴ることはリンチと呼んで差し支えないですよね?……を受け、何より心に深い傷を負った者としては体罰の復活を望む声というのは手放しで賛成はできないのですが、それでも時と場合によっては体罰が必要なこともあるんじゃないかな、と思うことがあるんです。
というか、自分がそういう体験をしてなかったら今の自分は子供を叱ることもできない学校教育なんておかしいと声を大にして言っていたでしょう。
でも、自分は不幸にもそんな幼少期の体験があるからこそ、そこにもう少し慎重になれる。
もともと考えてた話から脱線した話なのでオチが着く所がないのですが、
あえてオチをつけるとしたら


今の、そしてこれからの若者達にちゃんとした教育をしていく為の最初の一歩は
腐りきった教師達にもう一度 お前の選んだ仕事は聖職である ということを教育しなおすことではないでしょうか?


そんなわけで朝からこんなこと書いてたら急がないと遅刻しちゃう!!


追記:3分遅刻した --;


さらに追記:
急いでたんで最後がわかりづらかったんだけど、日本の正しい道徳教育には


教師を(現在の一般人以下のモラルしかもってない状態から)聖職者に戻す。

その上での愛の鞭の復活

若者のモラル復活で(゚Д゚)ウマー


というステップが必要なんじゃないの?ということです。