ビットの海、賜り物の命

自分はあまり大きな被害を受けていないものの、転職直後に震災があって、いろいろしんみり考えることが増えたというか、いつ自分が死ぬのかわからないから、少しでも生きた形跡を残しておきたいなという思いが強まった。


いつの頃からか自分は「自分の命……自我というものは賜り物だな」という考えをするようになった。
無神論者寄りの不可知論者なので、宗教的な意味ではない。
自分は世界をライフゲームの複雑版のような物だと捉えていて、その中で自我というものを持つに至った事が奇跡のような物で……その奇跡は自分が勝ち取ったものではなくて(前世とかも信じてないので自分の存在以前の時点で自分の誕生を自分の手で勝ち取れるわけがないと思ってる)、与えられたものだなと思ってる。
その与えられた奇跡の中にいるので、生き残るための最善の努力をし続ける限りは、いつ不意にその奇跡が終わってしまっても、「あぁ、そうか」と思うだけだと思っている(もし実際に死に直面することになったら、そんなに冷静にはいられないだろうけど)。


波の飛沫の一粒、ビットの集まり、そういう物にこの非力な命を重ねてみている。


今回の震災で世界各国から義捐金が集まっているという話をきく。
中国と韓国からは戦後初の日本への援助があったともきく。
台湾ではとても大きな額の義捐金が送られてきているともきく。
アメリカでは祈りを折鶴を折るという形で表している人たちがいるときく。
ニュースでは報じきれていないだけ、そして自分も見きれていないだけで世界中の沢山の国の沢山の人々が被災者の為に祈り、募金をし、胸を痛めてくれている。


こんな時でも報道やネットの議論にはいろいろなバイアスがかかっていたりする。
それでも自分は……被災地を思ってくれたすべての人たちに感謝したい。
やれあの国はいい、あの国は悪いと、こんな時くらい言いたくない。


自分は一年半ほど韓国に住んだこともあり、一般の日本人よりは彼の国の良い面も悪い面も少しは良く知っているつもりだ。
そんな自分だから、中国と韓国の人たちにも素直に感謝したい。
もちろん多額の義捐金を送ってくれている台湾の人たちにも感謝したい。
他のアジア諸国の人々、中東や西洋、南北アメリカの人たちにも感謝したい。


原発の事故で、世界に迷惑をかけてしまっている事を申し訳なく思う。


日本と周辺諸国の間にはいつくかの領土問題があり、我々はお互いの主張を受け入れることができない状態にはある。
太平洋戦争の時にはアジアの他の国にも苦労をかけた事は間違いない(当の日本の内地人が死ぬほど苦労したのだがら、その勢力圏にあった人達に苦労を強いていないというのはやはり考えづらい事だと思う)。
でもできれば、未来の子供たちには被害者意識、加害者意識とぎくしゃくした感情を残したくないと思っている。
いや、当の本人すら完全に戦争とは無縁の世代なので、個人的に謝れることは何もないのだ。ハムラビ法典の時代ではないのだし。


いつかアジアの国々の若者が、わだかまりなくお互いに対等に向き合い、切磋琢磨し、地球規模の問題に対しては手を取り合う、そんな世界が来てほしいと思う。


今回の原発事故で、すでに瀕死の重傷だった日本神話はとどめを刺されたと思っている。
でも、崩れたらまた積み上げていけばいいさと思う。
多くの犠牲者の命をむだにしないで、強く生きるのは、生き残ったに課せられた宿命だから・今は動けなくても、いつか必ず頑張れる時が来る。
今も原発での作業で戦っている人たちにも、何もできないけれどせめてエールを送りたい。