えなりかずきは橋田壽賀子に意見すべきではなかったか

朝の9時ですが、
えなりかずき橋田壽賀子に意見すべきではなかったか。」
などと考えていますw


そもそも目が覚めた直後に、もう数年も前に年下の友人が言った
「〜しなきゃですし。」
っていう言葉遣いははたしていかがなものか?と何故かまた考えてたことがはじまりなわけです。
その友人が可愛い女の子だったからその表現もまるで小さな子供が言った間違った表現のように、すごくかわいらしく聞こえたのですが、これはやはり誤用なのか、それとも新しく日本語として定着した表現なのか。などと考えてたのです。


昔から声高に「若者の言葉の乱れ!」とかいうオッサンオバサンに生理的嫌悪感を感じていたのですが、もしかしたら自分もそういう仲間に入ってしまったのかなぁ?などとほのかな危機感を感じていたりいなかったり。


その後紆余曲折を経て、実家に居た頃ウチの母親がよく橋田壽賀子のドラマを観ていたのを見ていた時にえなりかずき
「夕飯ぐらいこしらえてくれよ。」
のような台詞を言わされていた事を思い出したのです。
橋田壽賀子的にはえなりの年齢でも「(食べ物を)こしらえる。」という表現を使うことに疑問を持たなかったのでしょうが、自分がみるとえなりが「こしらえる」という台詞を言わされてるのを目にするたびに強烈な違和感を感じていたわけです。
「こしらえる」なんていう表現はウチの母も普段は使わないのですが、ウチの母方の祖母がよく言っていたような気がするので地域ではなく世代間のギャップだと思うわけですが、橋田壽賀子には(おそらく本人が無意識に使用する方の年代だから)それがわからなかったのだと思うのです。
で、それにたいしてえなりは脚本家先生が書いてきた台詞だから、という理由でそのまま言っているのだと思うわけです。
しかしこの場合、えなりは橋田壽賀子が書いてきた台詞をそのまま言うのではなく、橋田壽賀子に対して「自分の世代はこんな表現は使わないのですがこれでいいですか?」と確認すべきだったのではないかと思うわけです。
もちろん原則としては台詞は脚本家が決めるものであって役者が決めるものではないはずですが、必要ならば原則から外れた行動をすべきだと思うのです。
それはこの例で言えばドラマという偽物の世界のリアリティを高めて視聴者をさめさせないようにするために。


それをしない役者、あるいはそれを許さない脚本家、そしてそれをよしとする文化が形骸化した偽物しか生み出さなくなる要因なのだと思うのです。


そしてこれはけっしてえなりと橋田の話だけではなく、世の中の人と人との共同作業全般に同じことが言えるのではないかと思うわけです。


そんなことを朝の9時から考えていて、出勤前の貴重な時間を割いてまでここに書いてる俺ってなんだかな?とも思うわけですw